会津地方の喜多方市内には2600棟を越える蔵があるといいます。
それらは、単なる倉庫としての土蔵だけでなく、店蔵、座敷蔵、酒蔵、漆器蔵、味噌蔵など、実に多種多様な用途に利用されています。
かつての会津の商都とはいえ、片田舎の町に、何故これほどの蔵が建てられ、今なお現存しているのか、とても不思議に感じていました。

この疑問への答えが少しでも得られれば・・・これが今回のまちあるきのテーマの一つでした。
インターネット検索では、この疑問に対する様々な答えが見つかりました。
1.良質の湧水と米、麦、大豆などに恵まれた会津盆地で、酒・味噌・醤油などの醸造業を営む場として蔵が最適であった。
2.会津藩の奨励した漆器生産、明治初期から始まった生糸生産など、地場産業の隆盛とともに作業所としての蔵が建てられた。
3.明治13年の大火により、防火性能の高い土蔵造りへの認識が高まった。
4.土蔵を建てることは「卯建を上げる」ことと同様に、家のステイタスシンボルであった。
おそらく全てが正解なのでしょうが、どれも決め手に欠ける気がしてなりません。
町中に残る土蔵の数は多く、川越、佐原、栃木などの関東の有名な蔵の町にも負けないだけの土蔵の町並みがあります。
喜多方の経済的全盛期には、数多くの土蔵が建築されたのでしょうし、その後、建替え更新されることなく多くの土蔵が残ってしまったのだと思います。
しかし、それだけでは説明がつかないほど町の規模に比して土蔵が沢山あります。
何となく判然としないまま、会津盆地の端、山麓の村々にも土蔵の町並みがあるときき、そこに足を運ぶことにしました。
杉山村は、喜多方の中心を流れる田付川の上流域で旧米沢街道筋にあたり、喜多方の10kmほど北の飯豊山地の麓に位置します。
戸数19軒の小さな集落で、昔は木炭や笠の原料であるスゲ草の産地でした。


この村には喜多方より一回り大きな土蔵が、一本の道を挟んで両側に並んでいます。
土蔵の用途は貯蔵や座敷蔵のようで、東北地方に多い曲り家のように、奥にある母屋と繋がっています。母屋はトタンで覆われた茅葺き家屋のようです。
ある蔵に設けられた観音開き扉は、畳一枚程もある大きなもので、黒漆喰をあしらった目塗り台まである立派なものでした。越壁に巻いてある植物はスゲ草かも知れません。
総じて手入れは良く行き届いているようで、保存改修に対する行政の補助金があるのでしょう。
どうも、この村では、貯蔵や醸造、作業蔵として土蔵が建てられたのではなく、家の設えの一つとして建てられているように感じました。
もう一つ訪れたのが、関山村です。
会津若松から約15kmほど南にある旧下野街道の宿場町で、大内宿に向かう通称「大内宿こぶしライン」の途中に位置します。
街道沿いの南北500mにわたる旧宿場町は、基本的には一定の間口で茅葺の母屋が街道に面して妻面を向けて並び、敷地の奥に土蔵が建っています。大内宿と同じ配置です。
トタンで覆われた茅葺家屋に混じり、大きな土蔵が街道沿いに建っています。
その土蔵は、一般的に見られるものより一回り大きく、土壁塗りに虫籠窓をもつ商家風の土蔵、立派な観音扉をもつ正統派の土蔵、会津地方独特の冠型の屋根の架かる土蔵など、形式は様々なものがありました。
共通点といえば、出入口が妻面にあること、そして奥の母屋と繋がっていることぐらいでしょうか。


そんな中で目を見張ったのが下の写真の土蔵です。
白漆喰を塗りこめ、腰には下目板張りを施し、中央に出入口を設けた左右対称の堂々たる構えは、構造的には2棟の土蔵に一枚の屋根を架けたものですが、一見、上級武家の長屋門のように見えます。
丸見えの屋根裏小屋組みが少々安普請のようですが、外壁は立派な土蔵でした。
見ての通り手入れは行き届いておらず、奥の母屋にも人気は余り感じられませんでしたが、旧宿場町の中央付近にどっしりと構えた姿には強烈な存在感がありました。

そもそも土蔵は、母屋に付属して設けられた倉庫です。
目立たぬよう控えめにありながら、家の財産を火災などから守る、これが元来の土蔵の姿ですが、これが巨大化して表に姿を現わし、道行く人に家の財力や権勢を見せつけるように存在し、威圧感すら与えています。
この村でも、土蔵は貯蔵、醸造、作業所としてではなく、家の構えとして建てられているように感じました。
地域の気候・風土や産業の必要性から生まれ根づいてきた建築技法が、やがて時代を経て昇華され伝統になる。
土蔵造りは、防火性能や断熱通気性などの機能を追求した建築構造としてではなく、会津地方における居宅の建て方の作法の一つとして存在しているのかも知れません。
家には土蔵があるべきもので、誇れるほど立派な土蔵は、最も目立つ場所に建てるものなのかも知れません。
土蔵造りは会津地方の建築文化なのだと思います。
以上、勝手な解釈でした。