2011.02.06

下田 開国港の海鼠壁

熱海から列車を乗り継ぎ、幾つもの湯治場を通り、幾つものトンネルと切り通しを抜け、断崖の海岸線を走ること1時間半。特急踊り子号は終点の下田駅に着きます。

全線が単線のため、特急といえども駅での待ち合わせが多く、思ったより時間がかかります。
踊り子号は10両編成。
車両の長さは訪れる人の多さを物語ります。

伊豆急下田駅には旅館の出迎えの方が並んでいました。
これが下田なんだ!と旅情を感じて、何だか嬉しくなりました。

下田湾は、岩肌がむき出しの険しい山々に囲まれた、穏やかで小さな入江でした。
寝姿山の山頂からは、眼下の下田湾とともに、遠くには伊豆七島の島影を望むことができます。下田が天然の良港であることが良く分かります。

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下田は、伊豆半島の南端に位置し、古くから海上航路の風待ちの港でした。
江戸期には、下田奉行所が置かれ、海の関所として往来する船舶の荷物が、ここ下田で改められました。
「出船入船三千隻」といわれ大いに繁栄したといいます。

下田の町並みの特徴は、海鼠壁で覆われた家屋です。
昨今、その数が減っているものの、江戸末期から昭和初期にかけて建てられた、海鼠壁と伊豆石の外壁の家屋が町中に点在しています。
海鼠壁は、下田や松崎を中心とした南伊豆地方に多く見られ、防火、防湿のために土壁に瓦を貼り、その継ぎ目を漆喰で盛り上げて固めた土蔵造りの一種です。

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海鼠壁は腰壁に使われることが一般的です。
重い瓦を漆喰で貼り付けているため、施工やメンテナンスのしやすい腰壁に使用されるのだと思いますが、下田では外壁一面に使用される家屋が多く見られます。

土蔵の外壁にしたり、母屋の壁一面に貼ったり、他の地域では見られない、ダイナミックで奇抜な使い方をしているため、町中にあって、とても目立っています。

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バブル期、年間600万人を越えていた下田一帯の宿泊客は、近年では年間300万人程度まで落ち込んでいます。
下田湾に広がる下田船渠(造船会社)の跡地は、リゾートホテル計画が頓挫して更地のままであり、魚市場の隣にある道の駅「開国下田みなと」のボードデッキには閑古鳥がないていました。

首都圏近郊の観光地として、伊豆は今、大きな曲がり角に差し掛かっているようです。

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posted by koutaro at 18:55| Comment(6) | 日記

2011.01.29

MM21の歩行者動線

横浜のみなとみらい21にあるランドマークタワー
以前、ここからの日本一の眺めについてブログで書きましたが、この超高層ビルから見える光景には数々の発見があります。

その一つがこれです。
桜木町駅前から一直線にビルにペデストリアンデッキが延びています。

 

これのどこが発見だって?

ペデストリアンデッキが、車道を斜めに横切って、最短距離でビルとつないでいます。
この素晴らしさが発見なのです。

この歩行者通路は、ランドマークタワーの中を貫き、横のクィーンススクエアビルを通り抜けて、地下鉄みなとみらい駅とパシフィコ横浜(横浜ホール、国際会議場、インターコンチネンタルホテル)まで繋がっています。
おかげで、歩行者は殆ど雨にも濡れず最短距離で歩くことができ、動線上の飲食店にもお金が落ちることになります。
みなとみらい21のメイン動線として機能していて、朝夕の出勤ラッシュや横浜ホールでのイベント開催時には沢山の人達が往来しています。

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バブル期に脚光を浴びた多くのウォーターフロント開発で採用された計画思想は、歩行者と車の動線を上下に分離して、ビルとビルの間をペデストリアン(歩行者)デッキで繋ぐというものでした。

しかし、多くのペデストリアンデッキは、道路に直交して配置されることが原則で、ひどいケースでは、交差点にしか横断デッキは配置されませんでした。
歩く人間の立場からは最短距離が良いにきまっているのでに、道路を横断するのは交差点!という、平面計画の発想をそのまま引き継いでいたのです。

また、歩行者はビルの外部を歩かなければなりませんでした。
歩行者通路は、ビルに無関係な人が夜間も通行できるようにしておく必要がありますが、ビルの管理上からは、夜間は防犯上閉鎖する必要があります。
このため、ビル内に一般の人が24時間歩行できる通路を確保することは、ビル管理の面から難しいのです。
つまり、庭は一般に開放するけど、家の中には入れない、ということです。

みなとみらいは、従来からあった発想を転換したところに素晴らしさがあります。
計画の実現には、歩行者通路の管理者とビルの管理者、ビルの所有企業と横浜市の、並々ならぬ熱意があったのだと思います。

バブル期に、某ウォーターフロント開発に関わったことのあるある身としては、当時の自分の発想の貧困さ、そして感性の鈍さを反省することしきりでした…

posted by koutaro at 11:46| Comment(0) | 日記

温泉都市 熱海

初めて熱海に行きました。

観光地でもなく、湯治場でもない。
熱海は、温泉が創った「都市」でした。

八幡山から望む熱海の町は観光地という印象を与えてくれました。
太平洋に面する南斜面には、幾棟ものリゾートホテルが林立し、ヨットハーバーには数多のクルーザーが停泊している。
温暖なリゾート地という印象を受けました。

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しかし、一歩町中に入ると都市の風景が姿を現わします。

熱海駅に近いメインストリート沿いには、間口の狭い小さなビルが建てこんでいて、少し歩くと巨大なリゾートマンションが姿を現わします。
溢れんばかりの海産物が並ぶ土産物街の喧騒を抜けると、水の入っていない水槽が店頭に放置された鮮魚店があり、人が住む気配のないアパートや廃墟となって久しいホテルの高層ビルがあれば、その横には、真新しいホテルがそびえ立っています。
早朝には、海産物の卸し問屋の荷分け作業の熱気のなかを、職場に急ぐサラリーマンが足早に通り過ぎていきました。

道路の排水口から立ち昇る湯気とかすかな硫黄臭、そして至る所で湧き出ている源泉が、この町が日本有数の温泉地であることを思い出させてくれます。

熱海には、別府、道後、有馬、白浜、箱根などの温泉地とはまったく異なる都市景観がありました。

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熱海駅から歩いた海光町や伊豆山には、駅前とはまた少し違った風景が広がっていました。

目眩がするほどの急坂と迷路のような道を彷徨い歩くと、ごくごく普通の民家があると思えば、大きな門構えの屋敷があったり、巨大なリゾートマンションがあったり、廃屋のホテル跡があったり…
そして、突然現れる巨大なコンクリート橋脚を新幹線が猛スピードで走り抜けます。

長崎や横須賀のような港町特有の感動的な風景はありませんが、とても刺激的で面白いまちあるきができました。

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posted by koutaro at 09:21| Comment(0) | 日記

2010.12.30

北野天満宮と御土居

北野天満宮に参詣してきました。
子供の入試を控えての合格祈願です。

学問の神様として知られる菅原道真を祀る天満宮には、学業成就を願う人達が全国から訪れますが、元々は道真の御霊信仰のために建てられたものでした。

恨みを残して非業の死をとげた者の祟りを鎮めるために、平安時代に広まったのが御霊信仰ですが、その御霊の代表が、火雷神として恐れられた菅原道真でした。
元々、北野の地には火雷天神という地主神が祀られていたそうで、朝廷はその地に神社を建立して、道真の祟りを鎮めたといいます。
国宝の本殿は、豊臣秀頼が造営したもので、同時期に建てられた中門、東門、絵馬堂なども現存しています。

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境内には秀吉の築造した御土居(土塁)が残っています。

日本史上最大の土木事業家だった秀吉は、長浜城の築造に始まって、伏見、大坂などの巨大城下町を造りだしてきました。彼の最後の土木事業が京都の城下町への改造で、その総仕上げが御土居の築造でした。
現地の説明版にはこうありました。

「御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉公が、長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街地を守る堤防として、天正十九年に区の経費と労力を費やして築いた土塁です。」

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土塁を周囲に巡らす総構えは、この時代の城下町建設の基本構造でしたが、城下町に「砦」としての機能を持たせる戦国の世の防衛思想の名残りです。
天下人となった自分に、弓を向ける者などいないにもかかわらず、秀吉は、遷都800年の都を総構の城下町に改造したのです。

その後、土塁は、京の都に対して何の効用ももたらすことなく、無用の長物として次々と撤去されたようです。

現存する土塁は高さ10m近く、幅10m以上もある高くて大きなものです。
これだけ大きな土塁を、全周22.5kmに渡り築造した土木工事は、無駄な公共事業のはしりといえるかも知れません。

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posted by koutaro at 17:40| Comment(3) | 日記

2010.10.23

美味しい 山形

山形に行きました。3年ぶりの再訪です。

前回は、桜満開の霞城を目指して、宿を取ることもない慌しいまちあるきでしたが、今回は一泊して山形名物を堪能した訪問でした。

山形名物は数々あります。
さくらんぼや洋梨のラフランスなどの果物が有名ですが、食事では、芋煮、山形牛刺、だし奴、そば、等々沢山あります。
また、有数の酒処でもあり、地酒の楽しみもあります。

七日町一番街の居酒屋「味山海」でいただきましたが、とても美味しいお店でした。
芋煮は、小芋と玉蒟蒻に薄切り牛肉と白葱を加えたとても美味しいものでした。
関西風に表現すると、あっさり風味の肉じゃがで、じゃが芋の代わりに小芋と玉蒟蒻が入っているものですが、小芋が全く崩れていないのに味が滲みこんで、とても美味しかったです。

山形牛の刺身は、臭みがなく、日本酒に合う、軟らかくさっぱり味でした。
ダシ奴は、きゅうり、昆布、香味野菜(たぶん茗荷)と白葱をみじん切りにして、歯応えのある豆腐にのせたもので、これも美味しくいただきました。

山形はとても美味しい町でした。
そして、山形はとても上品な町でもあります。

金曜日の晩に七日町を徘徊しましたが、風俗店や飲み屋のケバい照明看板も少なく、無料案内所の喧騒もなく、寂れた市外地に、適度に散らばった飲み屋が、穏やかな週末の夜を艶やかに彩っていました。
酩酊状態のおじさんも、節度を保った千鳥足で歩いていたのが印象的でした。

蛇足ですが、居酒屋の隣の席には、40〜60代の方が方言丸出しでおしゃべりされていました。
あれが山形弁なのかどうか、私には判別できませんでしたが、いわゆるずーずー弁でした。
少し聞きに難く感じましたが、隣人によると、大阪弁も同じようなものだといわれ、確かにそうかも知れないと思いました。

そして、改めて山形のまちあるきをして、分かったことがあります。

山形は旧出羽街道沿いに紅色瓦をのせた土蔵が沢山残っています。
山陽道の上品な白壁土蔵や関東の豪壮な黒漆喰や大谷石張のの土蔵とは違い、あまりセンスが感じられず、ごちゃごちゃした印象を受ける土蔵です。
しかし、これが寄棟の土蔵なら、少し可愛いのかもしれません。

山形が益々好きになりました。

posted by koutaro at 23:18| Comment(0) | 日記

2010.10.22

名古屋めし

名古屋で「みそかつ」を食べました。

店は有名な「矢場とん」
巨大なわらじとんかつに、味噌ダレが溢れるほどかけてました。
確かに最初は美味しいと思いましたが、一皿食べ終わるときには、もういい!となりました。
甘くて、濃くて、しつこい。
こんなに浸るほどかけなくてもいいのに〜と、思います。
皿に残ったタレの溜りを見て、視覚的にもげんなりします。

名古屋の食文化には強烈は個性があるようです
「名古屋めし」と称される、中京圏独特のエキセントリックな地域食には、どうもついていけません。
自分の好みに合わない、ということでしょう。

「名古屋めし」は他にも沢山あります。

「味噌煮込みうどん」は山本屋本店。
これも一番の有名店ですね。
しかし、茹でるガス代ケチってるんちゃうか?と、疑いたくなるほど麺が固い。
おまけに蓋をひっくり返して取り皿にする、けったいな食べ方をします。

「あんかけスパゲッティ」
店名は忘れましたが、名古屋中心部にある屋外階段で上がる2階の喫茶店。
極太麺にトマトベースの餡がたっぷりかかっていました。これも、「どうですか?」と聞かれたので、「美味しい!」と答えましたが、それは、珍しいから。頻繁には食べられない気がします。

「手羽先唐揚げ」の有名店は世界の山ちゃん。
これに至っては最低!
塩辛いだけでした。
それでも、店内は満員御礼。摩訶不思議です。

「ひつまぶし」
これは旨かったです。
ただし、食べたのは豊橋でした。

初めての食べものネタでした。

最後に、まちあるき的コメントを少し。

濃尾平野は、基盤層が、養老山地東麓を走る断層に向かって沈降しており、この沈降地域を河川が埋立てることで形成された平野です。
そのため、濃尾平野を流れる木曽三川などの河川は、平野部を反時計回りに渦を巻くように流れ、桑名の東、つまり養老山地の南東端で伊勢湾に流れ出ています。

城下町名古屋は、猿投山の東山丘陵から西に張り出した熱田台地と呼ばれる逆三角形の高台に形成されました。

慶長十五年(1610)、当時の大城下町であった清洲を、いわゆる「清洲越え」と称される町ぐるみで移転させて、江戸城下町建設に次ぐ、近世都市計画により建設されたのが、尾張藩城下町(名古屋)でした。
熱田台地の南端にあった熱田神宮に対して、北端に名古屋城が置かれ、その間をつないだのが本町通りです。地理的には台地の尾根筋を縦断していました。

堀川とJR東海道線は熱田台地の西麓にあたり、JR中央線は台地の東麓を走り、金山駅は台地南部を切り通すように設けられた駅でした。
そのため、金山駅の両端は崖地になっています。
この風景は、上町台地を横断する大阪のJR天王寺駅に似ています。

名古屋の都市構造の特徴をもうひとつ。

城下町は名古屋城を先頭に、本町通りを都市幹線にした南端の熱田神宮と東海道に連なる、南北方向の都市構造をしていました。

しかし、今の名古屋市街地はそうなっていません。

名古屋駅が城下町西外れにできて、東西方向の人の流れができたことと、戦災復興事業により、若宮通り(100m道路)、桜通り、広小路通りが開通したことで、東西方向の軸線が新たに出現しました。
一方で、南北方向にも、久屋大通り(100m道路)、伏見通りが開通して、従来からの都市軸も強調されました。

いまの名古屋の都市構造は、栄町と中心とした井桁構造といえます。


城下町時代からの都市軸が、完全に九十度回転した都市が大阪です。

城下町時代、大阪城から東西方向の本町通りを都市軸として、西側一帯に船場・島之内が広がっていたのが大阪の基本的な都市構造でした。
南北方向には、高野街道に通じる堺筋が唯一の南北幹線でした。
明治以降、北外れの「埋田」に梅田が、南端の四天王寺に近くに天王寺が、それぞれ北南のターミナルとして位置づけられ、日本橋の南(現 新世界)で開設された勧業内覧会を契機に、御堂筋が大幅拡幅されて以降、大阪は南北方向の街となりました。

以上、蛇足でした。

posted by koutaro at 22:43| Comment(1) | 日記

2010.10.10

千葉タウンライナー

千葉市の中心部には、全国でも珍しい懸垂式のモノレール・タウンライナーが走っています。

大都市の中心部で、道路上空に高架の鉄道が走っている例は沢山あります。
羽田空港に行く東京モノレール、神戸三ノ宮のポートライナー、小倉の北九州モノレールなど。
しかし、千葉タウンライナーからは、これらとは全く違う印象を受けます。

高層ビルの谷間を、ぶら下がった車両が走る風景は、ほかの何処にもない独特のものですが、それよりも、都市景観に無遠慮に居座る巨大なメタルフレームが、いいようのない違和感の原因です。
鋼という素材がもつ硬さや冷たさが、巨大なスケール感と相乗して違和感を一層引き立たせています。

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鉄道をシステムで分類すれば、2本の鉄製レールを走る通常の鉄軌道のほかに、神戸ポートライナーや金沢シーサイドラインなどの新交通システム、そしてモノレールがありますが、これを都市景観の視点からみると、懸垂式のモノレールは、レールと支柱が巨大な鋼製であることに大きな特徴があります。

モノレールは桁上を車輪で自走するものです。
懸垂式モノレールの場合、ロープウェイのようにロープに固定してぶら下がるのではなく、箱桁の内部を車輪が走り、箱桁下部にスリットを空け、そこから車体をぶら下げています。そのため、鋼製の箱桁は大きな断面になり、上下線2本の箱桁が道路上を占拠することになります。

ビルの谷間から見える青空を、鉄のレールが舞う風景は、あまり見たいものではありません。

私の子供はこの風景を未来的と称します。
「おまえらの描く日本の未来はこんなに汚いのか?」と思ってしまいました。

posted by koutaro at 16:52| Comment(0) | 日記

2010.10.02

登呂遺跡

登呂遺跡に行きました。

小学生のとき、弥生時代の農耕集落として、社会の教科書の始まりを飾っていた遺跡は、静岡駅の南約2〜3kmにある普通の住宅地の一角にありました。

国土地理院の治水地形分類図をみると、遺跡は、安倍川の旧分流に挟まれた自然堤防上に立地していて、周囲より僅かに微高地になっているようです。当時の海岸線にあったのかも知れません。
現地に立ってもみても、高地にあるという地形的な印象は少ないのですが、海岸方向に下っていることだけは分かります。

しかし、私の鮮烈な記憶に反して、現地はとても地味で、住宅地にある公園のようにしか見えませんでした。吉野ヶ里遺跡のような高台の壮大な砦集落のイメージが先行していたようです。

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遺跡の発見は昭和18年。
住友軽金属と三菱重工の軍需工場建設のために整地工事の時でした。
その年に静岡県による緊急調査が行われましたが、軍需工場建設は何らかの事情で行われなかったようで、終戦後の昭和22年から本格的な調査が始まりました。

集落の周囲には水田が広がっていたようで、復元された水田の地下1mには畔や水路の遺構が残っているそうです。水田は人々が定住したことの証であり、畔や水路の遺構は人々が集団作業した痕跡です。村落共同体の原型が登呂には残っているのです。

おおよそ2000年前の弥生時代、この類の集落は全国至る所にあったはずで、登呂のそれが特別なものではなかったと思います。
それが、その後の長い歴史のなかで破壊されることもなく、偶然にも発見され、数多の人々の情熱により発掘され保存されたこと、ここに大きな意味があるのだと思います。

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2010.09.11

大谷石

宇都宮の北西7kmに大谷石の採掘場があります。

大谷石は、少し緑がかった軽石を大量に含む凝灰岩で、火に強く熱を通し難い石質をもち、軟らかく加工し易いこと、比較的軽量のため運搬に適していること、などの理由から、主に土蔵の外壁材として古来から多用されてきました。

宇都宮の市街地には大谷石を外壁材にした土蔵が数多く残っていますし、沿道にはブロック塀ではなく大谷石の石塀が至る所で見られます。

大谷石の岩層が地表に現れているのが大谷一体には、野天堀の採掘場跡の切り立った岸壁、長年に風雨に浸食された奇岩、採掘場後のローマ神殿風の地下大空間など、他では到底みることのできない奇観を生み出しています。

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特に、地下採掘場跡に残るローマ神殿にも見間違うほどの大空間は、数々のメディアに取り上げられ、誰もが一度は見たことがあると思います。

私も何度がテレビや雑誌を見て是非行きたいと憧れていました。
しかし、実際に行ってみると、想像以上に感動しました。

見えないほど高い天井、垂直に切立った壁、所々にある天井の小穴から差し込む光が、神々しく感じられます。
真夏でも凍るほどの冷たい空気、湿気が高く水滴が落ちて濡れた床面、小さな音でも響き渡り、息使いさえも憚られます。

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宇都宮に数多く残る大谷石張りの土蔵は、構造的には木造であり、明治期以降に西洋から積石造りの技術が入る前から建築されてきました。木造の板倉に、防火耐火外壁材として厚さ2〜3寸程度の大谷石の板材を、鉄釘を用いて張り付けています。

明治以降、組積石造の技術が浸透し、鉄道などの運送手段が発達すると、石蔵は張石構造から積石構造へと変化していきました。
採掘場近くの屏風岩石材店の入口にそびえる2棟の石蔵は積石造です。

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また、大谷石は土蔵だけでなく、様々な建物の外壁材としても用いられてきました。
宇都宮市街地の中心部にあるカトリック松が峰教会は、RC造2階建てのロマネスク様式の教会ですが、内外壁に大谷石を貼り付けた建物です。
何の予備知識もなくみると積石造にみえる、珍しい総大谷石造りの教会建築です。

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大谷石の柔らかで素朴な風合いを愛し、近代建築の素材として大々的に使用したのがフランク・ロイド・ライトでした。近代建築の扉を開いた巨人は、なぜか極東の小国に興味を抱き、大谷石を主要建材に選んで、数々の名建築を日本に残しました。

その代表が旧帝国ホテルです。私の大好きな建築のひとつです。
近いうちに明治村の旧帝国ホテルを再訪したいと思います。

posted by koutaro at 22:34| Comment(3) | 日記

2010.08.16

会津地方の土蔵文化

会津地方の喜多方市内には2600棟を越える蔵があるといいます。

それらは、単なる倉庫としての土蔵だけでなく、店蔵、座敷蔵、酒蔵、漆器蔵、味噌蔵など、実に多種多様な用途に利用されています。
かつての会津の商都とはいえ、片田舎の町に、何故これほどの蔵が建てられ、今なお現存しているのか、とても不思議に感じていました。

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この疑問への答えが少しでも得られれば・・・これが今回のまちあるきのテーマの一つでした。

インターネット検索では、この疑問に対する様々な答えが見つかりました。

1.良質の湧水と米、麦、大豆などに恵まれた会津盆地で、酒・味噌・醤油などの醸造業を営む場として蔵が最適であった。
2.会津藩の奨励した漆器生産、明治初期から始まった生糸生産など、地場産業の隆盛とともに作業所としての蔵が建てられた。
3.明治13年の大火により、防火性能の高い土蔵造りへの認識が高まった。
4.土蔵を建てることは「卯建を上げる」ことと同様に、家のステイタスシンボルであった。

おそらく全てが正解なのでしょうが、どれも決め手に欠ける気がしてなりません。

町中に残る土蔵の数は多く、川越、佐原、栃木などの関東の有名な蔵の町にも負けないだけの土蔵の町並みがあります。
喜多方の経済的全盛期には、数多くの土蔵が建築されたのでしょうし、その後、建替え更新されることなく多くの土蔵が残ってしまったのだと思います。

しかし、それだけでは説明がつかないほど町の規模に比して土蔵が沢山あります。

何となく判然としないまま、会津盆地の端、山麓の村々にも土蔵の町並みがあるときき、そこに足を運ぶことにしました。


杉山村は、喜多方の中心を流れる田付川の上流域で旧米沢街道筋にあたり、喜多方の10kmほど北の飯豊山地の麓に位置します。
戸数19軒の小さな集落で、昔は木炭や笠の原料であるスゲ草の産地でした。

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この村には喜多方より一回り大きな土蔵が、一本の道を挟んで両側に並んでいます。
土蔵の用途は貯蔵や座敷蔵のようで、東北地方に多い曲り家のように、奥にある母屋と繋がっています。母屋はトタンで覆われた茅葺き家屋のようです。

ある蔵に設けられた観音開き扉は、畳一枚程もある大きなもので、黒漆喰をあしらった目塗り台まである立派なものでした。越壁に巻いてある植物はスゲ草かも知れません。
総じて手入れは良く行き届いているようで、保存改修に対する行政の補助金があるのでしょう。

どうも、この村では、貯蔵や醸造、作業蔵として土蔵が建てられたのではなく、家の設えの一つとして建てられているように感じました。



もう一つ訪れたのが、関山村です。
会津若松から約15kmほど南にある旧下野街道の宿場町で、大内宿に向かう通称「大内宿こぶしライン」の途中に位置します。

街道沿いの南北500mにわたる旧宿場町は、基本的には一定の間口で茅葺の母屋が街道に面して妻面を向けて並び、敷地の奥に土蔵が建っています。大内宿と同じ配置です。

トタンで覆われた茅葺家屋に混じり、大きな土蔵が街道沿いに建っています。

その土蔵は、一般的に見られるものより一回り大きく、土壁塗りに虫籠窓をもつ商家風の土蔵、立派な観音扉をもつ正統派の土蔵、会津地方独特の冠型の屋根の架かる土蔵など、形式は様々なものがありました。
共通点といえば、出入口が妻面にあること、そして奥の母屋と繋がっていることぐらいでしょうか。

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そんな中で目を見張ったのが下の写真の土蔵です。

白漆喰を塗りこめ、腰には下目板張りを施し、中央に出入口を設けた左右対称の堂々たる構えは、構造的には2棟の土蔵に一枚の屋根を架けたものですが、一見、上級武家の長屋門のように見えます。

丸見えの屋根裏小屋組みが少々安普請のようですが、外壁は立派な土蔵でした。
見ての通り手入れは行き届いておらず、奥の母屋にも人気は余り感じられませんでしたが、旧宿場町の中央付近にどっしりと構えた姿には強烈な存在感がありました。

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そもそも土蔵は、母屋に付属して設けられた倉庫です。
目立たぬよう控えめにありながら、家の財産を火災などから守る、これが元来の土蔵の姿ですが、これが巨大化して表に姿を現わし、道行く人に家の財力や権勢を見せつけるように存在し、威圧感すら与えています。

この村でも、土蔵は貯蔵、醸造、作業所としてではなく、家の構えとして建てられているように感じました。

地域の気候・風土や産業の必要性から生まれ根づいてきた建築技法が、やがて時代を経て昇華され伝統になる。
土蔵造りは、防火性能や断熱通気性などの機能を追求した建築構造としてではなく、会津地方における居宅の建て方の作法の一つとして存在しているのかも知れません。

家には土蔵があるべきもので、誇れるほど立派な土蔵は、最も目立つ場所に建てるものなのかも知れません。
土蔵造りは会津地方の建築文化なのだと思います。

以上、勝手な解釈でした。

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